リチャード・オードリッチ
2010年1月18日(月)- 2月21日(日)
オープニングレセプション 1月18日(月)18:00-20:00
詩の一節(ものすごいエナジーで他のものに変えてしまう手品のようなもの、サササササ)これは詩に出てくる最初の一節。この詩の一節はペインティングの中に出てくる、詩集、ワードファイルとエッセイのカタログ、これはフランスのバライティー番組(ロバート・ブレッソンの映画「ピックポケット」のエキストラはフランスのバライティー番組に出てくる。)これは何かででも実際に他の何かで、全部新しいものに変わって行く。
僕は、ダンジョンズ&ドラゴンズのシリーズで日本の歴史をとりあげた「東洋の冒険」のロールプレイングゲームを持っていました。ここでいう日本の歴史とは忍者とか、侍とか。。。。この手の映画は結構人気だったので、ダンジョンズ&ドラゴンズにも日本の歴史ものが登場したようだ。だけどこのシリーズが僕は結構好きだったのです。このシリーズに出て来る特定のイメージは「刀」と「脇差」で、ふたりの男によってできた二つの険は、名誉の象徴として男の感情的かつ知的なアイデアに関係していました。このダンジョンズ&ドラゴンズのファンタジーの中から取った日本文化を、僕はアメリカのど真ん中で見ていたわけです。だけど僕にとっては懐かしいものであったのです。でもその懐かしいは単純にロールプレイングゲームへ向けての感情でした。それと同時にロールプレイングゲームの中には、ルールがあり、そのルールによって起きた出来事を説明するという哲学的な要素に興味を持つようになった。この要素を僕はペインティングに取り込み、ペインティングが物質的に物化したのです。そしてこのアメリカで育ちファンタジーの中から出た日本の文化というものを取り入れたペインティングは日本で見せることになりました。物は物質的にどこにいても存在する事ができるのですが、意味と言う物は場所によって変わってしまいます。こうした考えから言うとダンジョンズ&ドラゴンズのシリーズを題材にした絵は、他の小さい作品群がこれから変わって行く様を現すサインになる事でしょう。時間も変われば見方も変わってしまう。時間によって意味が変わったりする事について考えるのは重要なことだと思うのです。
大きな出来事だったのがダンジョンズ&ドラゴンズで遊んだ夜、僕はぜんそくになってしまったということ。いつも持っているぜんそくの薬(今はもう持っていないけど)をこの日もいつもと同様に服用したら症状は収まりました。けれど一緒に遊んでいた友達は、相当心配してパニックに落ちいってしまったのです。友達に大丈夫だから心配しないでくれと必死で言ったのです。 その時の若干10歳だった僕が気がついたのは、自分が見ている世界は、他の人にとってはまったく違った世界に見えるということ。