南川史門「ゴースト、ニューペインティング、東京、など」

2011年1月16日(日) - 2月20日(日)

オープニングレセプション(サンデーブランチ) 1月16(日)13:00-16:00
※オープニング当日は日曜の通常営業時間通り17時までとなっております。

この度MISAKO & ROSENでは3回目となる南川史門の個展を開催いたします。南川史門は1972年東京生まれ、現在も東京を拠点に制作活動をしています。南川の作品はいくつかの展覧会でも取り上げられています。最近では2010から2011年の1月まで六本木ヒルズアート&デザインストアで開催されたアーティストブック「The ABC BOOK」(2010年Hikotaro Kanehira発行)のための個展「そして、ABC, それから」や2009年にはMISAKO & ROSENにて、小説家吉田修一の連載小説「横道世之介」のために描いた作品293点を展示しました。この作品郡は、毎日新聞の夕刊に2008年4月から2009年3月まで連載されました。

「ゴースト、ニューペインティング、東京、など」展にて、南川が日頃より絵画を制作する上で使う、描かれた物が意味を失うという思考が見てとれるでしょう。過去の作品よりも明白に、ゴーストシリーズでは南川が絵画の世界で見て取れる最近の絵画手法を用いているのがわかります。ラウシェンバーグがデクーニングの作品を消してしまったように、南川の場合はその反対の手法をとっていると言えるでしょう。何かを追加し描く行為であるにも関わらず、矛盾して抽象絵画の持つ意味を消してしまうのです。 森美術館のチーフキュレイターである片岡真実氏はテキストの中で彼の絵画を記憶や残像(スペクトラム)と表現しています。この言及は最もであり、南川の絵画のモチーフは印象に元づいておりこれは一般的には絵画の歴史でもあります。 今回の個展での試みは、南川が取り組んだ最新の絵画の戦略であり、最新の絵画の手法を用いてその意味を消し去る行為に着手し、最終的に絵画がユーモラスな対比となって表現されています。
この機会にどうぞご高覧ください。

スペクトラムとしての時代の輝き

南川史門が描くイメージは、脳裡にかろうじて残る記憶や残像(スペクトラム)が薄布に投影されたように、カンバスや紙の表面に浮かんでいるだけで完全には定着していないようにみえる。南川は20世紀までの絵画の技術的、概念的な発展を継承しつつ、同時に都市の感覚、ポップミュージックなど「街に学んだこと」、テレビやインターネットを通した疑似体験などをその絵画に反映しているという。実際、渋谷や新宿など東京の街はネオンやサイン看板など明滅するかりそめのイメージに溢れていて、その喧噪に一旦溶け込んでしまえば、自分自身の存在さえ透明人間のように実感できなくなる。南川はそんな街を歩きながら浮遊するイメージやサウンド、群衆の話し声、車やバイクの騒音を吸い込み、都市の記号化された表層を写し取り、カンバスや紙に向かって吐息とともに吐き出しているのかもしれない。

南川の絵画では、しばしば幾何学的なパターンと人物、わずかな筆致を残した単色の色面が併置されるが、それはあたかも古典的絵画としての肖像画と抽象表現主義、カラーフィールドペインティング、シミュレーショニズムなどが記憶のなかで渾然一体となっている様子を示唆する。複数のカンバスによる構成は、渋谷駅前の交差点から重なり合って見えるビルボードのようでもあり、一方では星条旗のストライプや標的など都市のなかで記号化されたモチーフを描いたジャスパー・ジョーンズが、クロスハッチングや敷石など記号的意味を持たない風景の一部としてのパターンを無意味に描くことを試みた一連の作品を連想させる。ジョーンズのクロスハッチングや敷石は、日本の屏風を連想させるように水平方向に連続して展示され、後にはそのなかに初期作品に描かれた人物像やだまし絵などが融合されるようになる。

1950年代のアメリカ、抽象表現主義の隆盛を経て、都市景観における記号の二次元性に敢えて蜜蝋を使ってテクスチャーや物質性を与えたジョーンズの絵画は、イリュージョンと現実の関係を考えさせるが、南川の絵画を考える際には1980年代のネオジオの画家ピーター・ハリーの参照も有効だろう。ミシェル・フーコーの『監獄の誕生――監視と処罰』にみる工業社会の幾何学的パターンや、ジャン・ボードリヤールのハイパー・リアリティやシミュレーションなどを絵画上で解釈し、監房(セル)と接続回路(コンデューイット)といったモチーフを蛍光ペイントで描いたハリーの作品は、コンピュータやテレビゲームが一般化しようとする時代の現実(リアル)に関する諸理論を、改めて現代のわれわれに伝えてくれる。「幾何学は美術の分野というよりは現実社会の仕組みを考えるのにとても重要な方法になったと思っているんだ。都市の再開発や経済のシステムを幾何学的に構想するという意味ばかりじゃなくて、われわれは現実を幾何学的な表現として受け取っているし、現実を再現するのに幾何学を用いている」というハリーは、「ポスト・モダニズムの考え方では、絵はもはや当面の問題にとって適切なものではない(中略)なぜならばわれわれの時代はメディアの時代だから」としながらも、自身の絵画においてはポスト工業社会における記号を触感的に扱い、蛍光塗料の物質性や画面のスケール感と空間性などを重視している。

南川の絵画に繰り返し見られるストライプや水玉などの幾何学模様は、行為の意味としては複写された現実の再生産といえるが、その再生産されたイメージは現実の緻密なコピーや複製としてのハイパーリアルやシミュレーションではなく、あらゆる現実の瞬間、記憶やサイバースペースでの疑似体験の世界などを往来した結果の、いわば現実の残像だ。したがって彼の幾何学模様は正確な情報が削ぎ取られ、逆に筆致や絵の具の垂れなどが残された極めて薄塗りのイメージとしてかろうじて存在する。シミュレーショニズムから20年を経た現在、イメージの独創性やオリジナリティなどはどこにも無く、敢えて緻密なコピーを描いてみせることにも意味は無く、誰もが既成の写真やネット上のイメージを寄せ集めるエディティングと再構成の時代をわれわれは生きている。規制のない自由な盗用は、絵画のイメージソースとして桂離宮の松琴亭の襖や重森三玲の設計した東福寺方丈庭園、歌舞伎の三色の定式幕など、南川が意識する日本の伝統的な審美性を画面上で等価に融合させている。

南川の残像としての絵画は人物の描き方にも通底し、いかにも現代風の人物像は幾何学パターンと同じように極めて薄塗りだ。モデルは友人であったり街で見かけた人物だったりするが、あくまでも肖像画のように人物の存在を描くのではなく、その特徴だけが記号化されているにすぎない。したがって、陰影も奥行きも無く、幽霊のように透明で色白で、その形相も能面のように無表情だ。街ですれ違った人の服のセンスや一瞬の表情に意識が向くように、それもまたスペクトラムであり、伝統的な肖像画ではない。

網膜に残るスペクトラムとしての絵画。それゆえに蛍光色や幾何学模様が使われながらもネオンの広告そのままの過度な派手さはないが、それはそれで南川が実感しているリアルな「時代の輝き」なのだろう。

片岡真実(森美術館チーフ・キュレーター)