南川史門「エジプト、貴婦人、丸と四角」
12月18日(月) - 2007年1月28日(日)
休廊日:月曜/祭日
開廊時間:火曜-土曜12:00-19:00/日曜 12:00-17:00
(2006年12月29日 - 2007年1月8日まで冬期休廊となります)
南川史門は1972年東京生まれ。1991年から1994年まで多摩美術大学デザイン学科で学んだ後、一貫して絵画制作を続けてきました。現在も東京を拠点に制作活動を行っています。
オペラシティーアートギャラリーがスタートした1999年に「project N」シリーズの第一回目のアーティストとして個展を開催しています。
南川の作品は、彼の日常に存在する様々な対象を冒険的なアプローチで表現しています。実際の人物であったり物であったり、はっきりしない物まで、彼の目に留まったあらゆる対象は絵画というメディアを意識しながら表現されてゆきます。
また、20世紀の抽象表現主義の巨匠やポップアートといった歴史的に語られる絵画の文脈に影響を受けつつ、デザイン的な要素を加えるなど独自の絵画的方法を見いだしています。
本展覧会では南川がかねてより気になっていたというピラミッドをモチーフにしたポートレイトと実験的な抽象作品を発表いたします。
抽象的な描写でありながらもどこか無意識のうちにコントロールされた絵画は、抽象表現主義の画家が試みた行為とは真逆の意味を示しているようにも思えます。
どうぞこの機会にご高覧頂けますようお願い申し上げます。
尚11月28日(火)から12月10日(日)までプレビューオープン展を開催いたします。今後展覧会を開催予定のアーティストの作品をご覧いただくことができます。合わせてご高覧下さい。
展覧会問い合わせ先:ローゼン美沙子 e-mail: gallery@misakoandrosen.jp
時折、何とも言いがたい作品に出合うことがある。南川史門の場合はいつもそうだ。作風を形容し、言語化しようと試みる私たちの眼差しからするりと逃れ、ようやく捉えたと思った時にはもう素知らぬ顔で違う文脈にいたりする。これが一枚の絵を見ている間にすら起こるのだから厄介である。作品の描法やスタイルが多彩なのではない。どちらかと言えばそれは一定で、どのモチーフを描いても一人のペインターの手によるものと納得がいく範囲である。では何が問題かというと、作品が常にアンビバレントな状態にあることだ。それが作品の参照先と接続先を自在にし、その結果、見る人に対して幾つもの異なる顔を見せることになる。
南川の作品を見てちょっとレトロな雰囲気を感じる人もいれば、逆に最近よくあるクールなドローイング調のペインティングだと言う人も、あるいは、フォーマリズムからアメリカ抽象表現主義の系譜に連なるクラッシックなファイン・アートの絵画と見る人もいるであろう。どれも正しい反応である。私は南川の作品に潜在する無意識なカメレオン性に、この上ない現代性を感じる。カメレオン性に対峙する経験とはつまり、私たちが思考する際に慣れている各個人の「いつもの文脈」から予期しなかった文脈へと飛躍させられることであり、また不可視だった存在が視点の移動によって可視化されるということである。多少大袈裟に言えば、「目からウロコ」もこれに近いだろう。一つの状態に留まらない流動的な南川の作品においては、一枚の絵を見ていくなかでウロコの連続落下があっても不思議ではない。
新作の一群のポートレートは、1999年の初個展の際に発表した《14の分身》(1999)にその原形を見ることができる。2002年にも電話機、タオル、女性のポートレートの各モチーフを、シリーズとしては括らずに近似した構図で複数展開させる試みを行っているが、それらの展開の見極め方に対して南川は、「(人物の)意味がなくなるまで描く」と言う。ポートレートや静物という伝統的なカテゴリーを用いながら、彼は本来その表現主題となるはずのモチーフの個性や意味、そして絵の中心を意識的に喪失させていく。
とはいえポートレートを見る時、最初はその人物像に思いをめぐらせるのが自然であろう。だがその顔は、連続して示される差異を見ていくうちに解体し、徐々に図像としての要素――目鼻、口、眉の形、位置、その向き、首から襟にかけての線の有無、その太さ、髪の毛の塗り斑や垂れ、背景の描写など――が浮かび上がる。しかもそれらの筆致や調子、角度はあえて揃えられないままに統合されている。そうして改めて見ると、これらの不均質な要素が、キュビズムのように複眼的な視点で一つのキャンバス上にコラージュして描かれていることが分かる。大作のタブローも同様で、1点に複数の要素を混在させて支柱を揺らがせるか、複数点に分散させて意味を失わせるかの違いである。
南川は具象的なイメージを扱う。だが対象を描くというよりはむしろ、視覚がモチーフを捉えるときの抽象的な視点の移動と思考を、仮に具象的な形を流用して画面に定着させていると言った方が良いぐらいだ。その仮設性と流動性は、絵画の表象機能と表面性を問う点では古典的であるが、現代の若手ペインターに特徴的な傾向でもある。
セザンヌの《りんごとオレンジ》(1899頃)で卓上のリンゴがテーブルクロスを留めるピンのように見えてしまう時、それが描かれたイリュージョンであると気付くように、南川の《美しい貴婦人》(2006)も、腰をかけているにはそういえば変な角度だとふと気付く瞬間があるだろう。絵画世界においてそれらは私たちを現実に引き戻すノイズかもしれない。だがいずれの作品もそれによって完成度と美しさが損なわれることはなく、逆に新しい空間の表現方法を提示した。ノイズ・ミュージックや不協和音がサウンドの新たな美を提示したように。現在私たちが接続する先は、断絶したまま重層化したフラグメンタルな歴史である。だから南川にとっては、正面性に対するこだわりやセザンヌやマネなど先陣たちのクラッシックな実践がハイテクに感じられたりするし、絵画を描く以上は美しいものであろうとする姿勢も感じられる。
ソンタグは「美についての議論」(『Daedalus』2002年秋号)で、美しいと言う代わりに使われるようになった「面白い」という表現の滑稽さと、美が再び価値判断の基礎となる重要性を説いた。確かに「夕日は面白い」のではない。何とも言いがたい作品だからこそ、南川の作品には美について再び話し合うための限りないポテンシャルがある。
飯田志保子(東京オペラシティアートギャラリー キュレーター)